3.11の桐生と私。東日本大震災を振り返る
東日本大震災の地震が起きた時、自分が何をしていたか覚えていますか。
私は、記憶が間違っていなければ、ドラマ『3年B組金八先生』の再放送を見ていた気がします。当時は高崎市に住んでいましたが、その日は休暇で、桐生市内の実家にいました。群馬県内で最大の震度6弱を記録した桐生市内の地震計からそれほど遠くない所に私の実家はあり、集合住宅の6階だったこともあって、揺れは相当強かったです。外に出て左右に動く電柱の振れ幅を見た時は、正直なところ「これまでか」と思いました。その後、しばらくは(必ずしも実家とは限らないのですが)ビルが倒れる夢、自分がその中にいる夢をよく見ました。
▽2011年3月11日15時5分ごろ撮影。桐生市内
新聞社に勤めていた私は(ただし、当時はいわゆる記者ではなく内勤)、ひと通り家の安全を確認した後、とりあえずカメラを持ってまちに出ました。今思うと、こうした「とりあえず」的な行動は、もし被害の深刻な地域だったら、それで命を落としていたかもしれません。が、当時はそんなことを思うこともなく、なぜか「銭湯が危ないかもしれない」などとよく分からないことを考えながら、2時間ほど市内をウロウロしました。
▽2011年3月11日16時ごろ撮影。桐生市内
数日後、私は記者に戻されました。計画停電の予定を確認したり、義援金の受付名簿を打ち込んだり、「どこに行けば○○が買えるか」「ガソリンは本当にないのか」といった取材をしたのを覚えています。そういえば、「電気がないのに、なぜ電車が動いているのか」という取材もありました。皆さんが思う災害報道のイメージとは違う地味なものかもしれませんが、私にとっては意味のある経験でした。「生きるというのはこうゆうことか」と思いました。
▽2011年3月11日16時25分ごろ撮影。桐生市内
東北の被災地へは、約3か月後、休暇を利用して女川へ行ったのが最初でした。その後、女川へは何度か足を運んでいます。宮古にも行きました。宮古は、桐生市が震災がれきを受け入れた地域です。私にとっては、中学校の修学旅行で訪れた思い出の地でもあります。最近は仕事で陸前高田のまちづくりに少し関わらせていただきました。復興はどこも大変です。
▽陸前高田の高田松原津波復興祈念公園などで運行した桐生市発祥の低速電動バス「MAYU」。2020年11月撮影
月並みな表現ですが、あの震災で、価値観は変わりました。桐生はいわゆる被災地ではないけれども、人もまちも変わった気がします。この10年、そうゆう出来事をたくさん見てきました。悪いことばかりではなかったと思っています。次の10年は、むしろ楽しみなくらいです。
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